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為替市場には世界中の投資家の思惑が交錯しており、経済指標や現在の為替レートと平均価格との乖離率など様々な要因が需給バランスの変化を引き起こしています。
また、時には政権にかかわる要人の発言も相場を動かす重要な取引材料になります。その人物が強大な権力を握っているほど発言に重みが生まれ、より大きな値動きとなります。
その最たる例が、「カーターショック」と呼ばれる歴史的イベントです。一人の大統領が発表した経済政策により、ドル円相場で通常では考えられないような大暴騰が発生しました。
どうしてカーターショックが起きたのか、為替相場にどの程度の影響を与えたのか、具体的に見ていきましょう。
カーターショックとは
カーターショックとは、1978年11月にアメリカ合衆国大統領ジミー・カーター氏が発表した大胆な経済政策のことです。カーター大統領は、日本や西ドイツを含む先進諸国と提携し為替市場への協調介入を強化すること、IMFからおよそ300億ドルの介入資金を調達すること、公定歩合を8.5%から9.5%へ1%引き上げること、預金準備率を2%引き上げることなどを宣言しました。
中でも、公定歩合の1%引き上げはあまりにも衝撃的な内容でした。公定歩合とは中央銀行が民間の銀行に貸し付けを行う際の金利のことで、公定歩合が上がればお金を借りにくくなるため貨幣流通量が増える経済効果を得られます。現代でも導入されることのある便利な手法ですが、一気に1%も引き上げるのは常軌を逸しています。カーター大統領の並々ならぬ覚悟が伝わってくる金融政策と言えるでしょう。
カーターショックの歴史的背景
カーター大統領がこのような経済政策を打ち出したのには大きな理由があります。
ニクソン・ショックを契機に固定相場制が終わり、世界の為替市場は変動相場制に移行しました。やがて米国の貿易収支は大幅な赤字となり、経常収支が極限まで悪化。上昇傾向にあったインフレ率はついに10%を超えてしまいました。1ドル360円だった日本円は308円に切り上げられた後、徐々に円高が進んで200円台後半で推移。アメリカにとって看過できないほどドル安・円高が進行していたのです。
アメリカ当局は賃金物価の抑制や為替介入などいろいろな手を尽くしましたが、それでもドルの急落に歯止めがかからず。ついには200円割れして1ドル170円台をつけてしまいました。追い詰められたカーター大統領は、ついに抜本的なドル防衛総合対策を決断。まさに背水の陣で臨んだ発表だったのです。
カーターショックの影響
右肩下がりに急落していたドル円相場は、カーター大統領の発表をきっかけに急変します。わずか1日で10円以上もの急騰を見せ、すさまじい勢いでドル高・円安が進んでいきました。そしてその数年後には1ドル250円を突破。ニクソン・ショック以後のドル安を半分近くも取り返す躍進ぶりです。まさに「カーターショック」としか言いようのない現象です。
短期間に100円近くも円高に進んだり円安に進んだりするほど当時の為替相場の値動きは強烈でした。変動相場制になってまだ間もない頃だったため、このような荒れ相場が日常茶飯事だったのでしょう。近年ではリーマンショックや人民元切り上げなどのサプライズをきっかけに相場が大きく動いたことがありますが、昔に比べれば微々たるものです。
カーターショックの教訓
私たち現代のFXトレーダーにとってもカーターショックは他人事ではありません。要人発言によって市場が急変することは現代の為替相場でも起こりうるからです。
例えば米国では利上げに関心が集まっており、FRBのイエレン議長の発言次第で急激にドルが買われて円安になったりドルが売られて円高になったりすることが珍しくありません。欧州圏ではドラギECB総裁の追加緩和に関する声明によってユーロが高騰・暴落することがあります。
個人トレーダーは得てしてチャートばかりみてしまう習性がありますが、たとえデイトレードにせよ経済ニュースに気を配ってファンダメンタルズ分析を併用することは非常に大切なことです。最低限、テレビやインターネットで報道されている話題や各FX業者から配信されているリアルタイムニュースは定期的にチェックしましょう。
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