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金融の自由化、グローバル化が進むなか、私達はさまざまな金融商品に触れる機会も多くなりました。これだけ経済や金融のグローバル化が進むと、もはや一国の経済・金融政策・通貨政策だけではすべての問題を解決することが困難になっています。
為替レートを動かす要因はさまざまですが、その要因のひとつ国際会議等のイベントがあります。これら過去の歴史上為替レートを左右するイベントや出来事を理解し、それらが為替相場に与えた影響を把握しましょう。為替相場の歴史を振り返り、為替取引する上での判断基準に取り入れてみることも重要なポイントです。
固定相場制の歴史
当初は現在のように毎日為替レートが変わる変動相場制ではなく固定相場制度が採用されていました。
固定相場制になるまでの過程と変動相場制へ移行するまでの流れを振り返っていきましょう。
ブレトンウッズ体制
第二次世界大戦中の1944年、米国のニューハンプシャー州にあるリゾート地ブレトンウッズで、戦後の枠組みを決める重要な会議が開催されました。この会議では、連合国44カ国により「国際通貨体制に関する会議」が行なわれ、国際通貨制度の再構築や、安定した為替レートに基づいた自由貿易に関する取り決めが行われました。続きを読む >>
・当時日本の外国為替相場はどうなっていた?
日本の外国為替相場は第二次世界大戦以降は取引停止となっていたのですが、ドッジライン具体化の一環として1949年4月25日より固定相場制度が採用されることになりました。
為替レートは1ドル=360円であり、この360円レートはその後1971年8月まで続きました。途中ポンドの切り下げによる円切り下げなどが議論されるなど再三の危機が訪れたのですが、360円時代はおよそ22年間続きました。
ニクソンショック
基軸通貨国のアメリカでは、慢性的な国際収支の赤字が1960年頃から続いていました。過剰なドルの累積とドルの流出により、ドルの弱体化が進行しつつあったのです。
その後貿易収支が赤字に転じたことなどにより、アメリカの国際収支は1971年に入って大幅に悪化し、3回の公定歩合引き下げにより景気の拡大を目指したのですが、欧米諸国との金利拡大という結果となり、最終的には投機的な短期資金の移動を誘発しました。特に投機筋によるドイツ・マルクの買いが収入したことにより、ドイツマルクは固定相場制から変動相場制に移行したのです。
国際的な通貨不安を改善するために、アメリカのニクソン大統領は新経済政策を実施しました。具体的には10%の輸入課徴金の賦課や金と米ドルの交換停止などの措置が行われたのですが、これにより事実上従来の固定相場制度は崩壊したのです。日本及び欧州各国も固定相場制から変動相場制へと移行し、固定相場制度の30年以上の歴史が終了したのです。
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スミソニアン合意
ニクソンショックにより固定相場制から変動相場制への移行が行われたのですが、主要国においては変動相場制、または固定相場制と変動相場制の2つの制度を併用する二重相場制が採用されることとなりました。当初は変動相場制はあくまでも一時的な措置であると考えられていて、将来的には再度固定相場制に復帰することが検討されていたのです。
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その後スミソニアン会議が1971年12月に開催され、主要国通過の対ドルレート調整とドルの金平価切下げが決定されました。
その結果ドル円レートの変動幅は308円を中心として、上下プラスマイナス2.25%である301円70銭から314円93銭までの間とされたのです。
ブレトンウッズ体制の終焉
第二次世界大戦後、圧倒的経済力を誇っていたアメリカですが、1960年代の後半から貧困対策の出費やベトナム戦争が原因となり、国内の需要管理がうまくいかずにインフレが加速、60年代には海外援助や輸入超過などで、国際収支が大幅な赤字を記録しました。続きを読む >>
変動相場制への移行
どのようにして変動相場制へ移行するようになったのでしょうか?
・その要因となったものとは?
スミソニアン体勢が1971年に発足してからしばらくの間は、投機的な売りが集中したことによりポンドが変動相場制度に移行するといった試練などもありましたが、国際通貨の情勢は一時的な小康状態となりました。
しかし、ドルに対する再度の不信がアメリカの大幅な貿易赤字の拡大などにより世界中に広がり、1973年には再度通貨危機が発生したのです。ドルに対する投機的な売りが集中したことなどにより、イタリアリラが二重相場制となりました。
アメリカはドルの10%再度切り下げなどの措置を実施しましたが自体は収束せず、最終的に世界各国の為替相場は完全変動制へと移行したのです。
第一次オイルショック
・第4次中東戦争勃発が原因で原油価格が急騰。急激な円安へ。
変動相場制となった日本の円相場は265円前後(スミソニアン合意レートの308円に対しておよそ16%の円高水準)で推移していたのですが、その後、第一次石油ショックが1973年10月に発生したことにより円は280円台まで売られました。
さらにその後の石油価格の上昇などにより、1974年1月には円は300円台にまで急落したのです。その後市場が落ち着きを取り戻したことにより円の値動きは270円台~300円台の間となり、アメリカの景気回復への期待からドルが買われたことなどにより1975年12月には変動相場制採用以来の最安値となる306円85銭を記録しました。
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1978年11月にカーター大統領が発表したドル防衛策
アメリカのカーター大統領が1978年11月にドル防衛策を発表したことや、主要国における協調的為替政策が行われたことなどにより、これまでの行過ぎた円高状態は是正されることになりました。
具体的なドル防衛策として、公定歩合の引き上げ、外国為替市場への大規模な介入、スワップ網の拡大、カーターボンドの発行、IMFからの資金引き出しなどの施策が行われたのです。主要国が協調してドル買い介入を実施したことなどもあって、同年11月末にはドル円レートは197円80銭程度になりました。
>>カーター大統領によるドル防衛策の続きを見る
第二次オイルショック
・イラン革命により原油価格が高騰。円は急落へ。
イランの原油生産停止(1978年のイラン情勢の悪化による)やOPEC諸国が原油価格を引き上げたことなどにより、ドル円のレートは1979年5月の時点で220円程度となりました。
>>第二次オイルショックの続きを見る
さらに日本経済全体のファンダメンタルズの低下などにより、石油価格の変動に弱いと判断された円は大きく値を下げて、1979年11月の時点では250円程度となったのです。
その後、日本政府が発表した5項目の円安対策により円は一旦は230円程度まで回復したのですが、その後は協調介入などの効果もなく円安傾向が続き1980年4月には260円70銭までの円安が進行しました。
しかし、この時点を底として日本経済の回復基調が認められたため、その後は一気に反転し1980年6月には210円程度にまで回復したのです。
プラザ合意
1985年9月、過度なドル高の対策のために米国の呼びかけで、G5(米国,英国,旧西ドイツ,フランス,日本の5カ国蔵相会議)における大蔵大臣(米国は財務長官)と中央銀行総裁が集まり、会議が開催されました。プラザ合意の続きを見る >>
ルーブル合意(フランス)
プラザ合意により急激なドル安が進んだため、今度はドルの急落による混乱への対策が必要となりました。主要国の中央銀行総裁や大蔵大臣が1987年2月にルーブル宮殿(フランス)に集まり、今後に対する対応が協議されたのです。
アメリカの財政赤字の縮小や日本の内需拡大などが合意され、ドル円の相場については1ドル=153円50銭を基準として安定を図ることが声明として発表されました。さらに協調介入により為替相場の安定を図ることが合意されたのですが、実際には協調介入による為替相場の安定は実現せず、ドルの下落はさらに進行したのです。
アメリカでは双子の赤字(アメリカ財政の赤字と国際貿易の赤字)が膨らんだことや、さらにニューヨーク株式市場における1987年10月の大暴落(ブラックマンデー)などにより、円高ドル安は1988年には1ドル=120円の水準に達しました。
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円安の反動による円高について
プラザ合意から1988年まで続いた円高ドル安は、その後1989年から1990年にかけて円安ドル高へと転換し、1990年4月の時点では1ドル=160円となりました。
円安への反動についてはバブル経済により含み益が拡大した日本の国内機関投資家が海外資産への積極的な投資を行ったことや、国内機関投資家に対する外債投資規制の緩和が行われたことなどが理由となっているようです。
ジョージ・ソロス -イングランド銀行をたたきつぶした男
ヘッジファンを率いてデリバティブを駆使し巨額の利益を次々へと生み出したジョージ・ソロス。彼によってイングランド銀行がつぶされ、ポンドは暴落しました。
>> ジョージ・ソロス -イングランド銀行をたたきつぶした男の続きを見る
円高基調が続く。円高水準は1ドル=100円以下に
1990年から1995年までの円相場は再び円高ドル安の傾向となり、1995年の4月には史上最高値となる1ドル=79円75銭となりました。
円高の理由としてはバブル崩壊による輸入の減少や内需の冷え込み、機関投資家のソルベンシーマージンの導入による海外投資からの撤退、円高による巨大な為替差損の発生による投資家の海外資産の売却などが原因となっているようです。この時期には協調介入による円売りなども行われたのですが、経常黒字が巨額となったことなどにより十分な効果をあげることができませんでした。
ドル円80円割れで史上最安値
1995年4月、ドル円は80円を割れ79.75円へ。
円高の修正と日本の超低金利政策について
先進主要国はワシントンDCにおいて1995年4月にG7を開催し、あまりに急激に進んだ円高を修正するために「円高ドル安の水準は行き過ぎである」という声明を出しました。
さらに主要各国が円売りの協調介入を行ったことや、「対外投融資促進策」を大蔵省が打ち出したことなどにより、同年9月には1ドル=100円の水準にまで円高ドル安は修正されたのです。その後山一證券(1997年)、日本長期信用銀行(1998年)、日本債権銀行(1998年)などが相次いで破綻したことなどもあり、1998年8月にはドル円は1ドル=147.66円に達しました。
ヘッジファンドの破綻や通貨危機などによる円高進行
1997年の7月におけるタイの通貨危機を発端として、1998年8月には通貨危機がロシアにまで波及したことなどを受けて、巨大ヘッジファンドであるLTCM(ロング・ターム・キャピタル・マネージメント)が破綻しました。
これについては新興国の株式や債券に対して、大きなレバレッジをかけた投資を行っていたことが破綻の理由となったようです。これらの混乱により比較的安全な資産だとされている円が積極的に買われたのですが、1ドル=100円の水準を割り込むことはありませんでした。
アジア通貨危機
1997年のアジア通貨危機が起こったことは記憶に新しいと思います。この現象は東アジア、東南アジアの各国経済に悪影響を及ぼし、世界経済にも大きな影響を及ぼしたことはご存知のとおりです。このアジア通貨危機とは、どのような影響があったのでしょうか。続きを読む >>
米国の好景気とITバブルが外国為替相場に及ぼした影響
アメリカでは1998年~1999年にかけて超低金利となったことなどにより、1999年からはベンチャー設立ブームがシリコンバレーを中心として到来しました。
ドットコム関連と呼ばれたIT企業の株価が高騰し、為替相場はドル高円安となったのです。2002年の1月には1ドル=135.14円まで円安が進んでいます。ただしその後2001年の同時多発テロや2002年のアフガンやイラクへの出兵などによりITバブルは収束し、株価の低迷などの影響により2005年1月には1ドル=101.68円にまで円高ドル安が進行しました。
>> ITバブル -20世紀末に到来した米国の好景気
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